History 

 

 

 

知られざる歴史への招待 その 6
 

 


        朝鮮の役に於ける日本語通事とは、一体誰だったのか?

薩摩の待医として仕えていたのは?

裏切り

 

 

日本語通事とは

  孫次郎その人である。

彼の本名は、張昂(ちょうこう)である。明国(中国)の南京人であった。

15歳の時に父を失った。父は再婚していたが、その継母から憎しみを受けて、毒殺されそうになった。それを恐れて、張昂は薩摩に逃げて来たのであった。坊津に上陸した張昂は、暫くそこに留まっていたが、孫次郎と名を変え帰化して、頴娃(鹿児島県頴娃町)に住んでいた。薩州は頴娃久虎に仕える事となったのである。久虎の死後、継母の死を入港して来た貿易船からの便りで知った孫次郎は、暇を願い出て、故郷の南京に帰っていた。豊臣秀吉による朝鮮国侵略である朝鮮の役が起こり、孫次郎も例の如く明軍に徴用されて、日本語通事として活躍するのである。「南聘(なんぺい)紀考中巻」による。

1589年慶長3年に、明将の董(とう)一元は、副将の茅国器(ぼうこくき)と共に兵20万を率いて、島津義弘、家久父子の守泗川の陣地に攻め寄せて来た。その時、明軍では孫次郎を呼んで、薩摩である島津氏の戦いの方法を聞く。何故、孫次郎でなくてはならなかったのか?

孫次郎は、かつて薩摩に仕えていたこと。薩摩の軍師として、働いていたことに他ならなかったのではないだろうか?

その疑問が、私の脳裏を掠める。もし、薩摩が軍師として採用していたのであれば、薩摩の怖さと、凄さを感じ取れる。 大将のもとに、常に軍師を従事させる戦の手法は、当時の日本ではなかった。武将達が、参謀会議なるものを開いて、作戦、戦略、策略を巡らしていた。その結論として、大将が指揮をとるといったやり方であった。

聞かれた孫次郎は「薩摩の行く所に敵はなく、攻めたら必ず城をとり、戦ったら必ず勝つ無敵の軍」と答えたらしい。

上記文書は又、薩摩軍が如何に、戦略に優れていたかが伺える文書でもある。

孫次郎は、明軍と薩摩軍との間においても、日本語通事として伝令を果たすのである。

 

薩摩の待医とは

代表的な人は、許三官郭国安である。

「島津国史巻之二十一」によると、明人で、高陽氏許三官(許儀ともいう)という人が、島津義久に待医として仕えていた。

その後、明人の郭国安が薩州に来ていて、京泊(鹿児島県川内市)に住んでいた。これを知った義久は、名を理心と改めさせて、三官のもとで、医術を学ばせた。何故、義久は理心に、医術を学ばせたのか?  彼の知識と才能を見越していたと考えられる。

朝鮮出兵の時、義久は許三官を従えて行った。ところが、三官は病に倒れ、理心と交替させることとなった。

両軍の戦況は、一歩も動かずに硬直状態であった。そこで、義久は、理心にスパイを命じた。が、なかなか、うんと言わない。強制してやっとのことで、これに従わせた。

許三官の名前は、そこに住んでいたので、鹿児島市に三官橋という石橋の名で残っているようである。

 

裏切り

 薩摩の歴史に於いて、残念な事件が起きた。

1598年 慶長3年の始めに木下大膳太夫吉俊が、薩州坊津に流されて来た。

どのような理由から坊津に、配流の身を寄せることとなったのであろうか?

木下大膳太夫吉俊は、同じ豊臣秀吉配下の武将石田三成と不仲であった。その為、三成の讒言(ざんげん・中傷)によって秀吉の勘気を被った。秀吉の怒りをかった木下大膳は、坊津に流され、宮田但馬の家に寓居する事となった。

宮田但馬と、寝食を共にして語り合った。但馬と意気投合したのも束の間、加世田の杉本寺(一乗院末寺)に移すようとの命が下ったのである。直ぐに秀吉から、切腹を命じる親書が届いた。そして、薩摩藩庁からは検査役として、北条善左衛門が、坊津に来ることとなった。善左衛門は、あらかじめ宮田但馬と打ち合せ、木下大膳太夫吉俊に小太刀だけを身に付けさせて、加世田の相撲見物に誘い出した。途中で討ち取る手筈を決めていたのである。それは、3月27日であった。加世田は津貫の、六本木の付近に差し掛ると、物陰に身を固めた軍勢十数人が、大膳の来るのを待ち伏せしている様子である。大膳は、早く危険を察知していた。

待ち伏せしていた軍勢を見て「あの騒々しい軍勢は何事か」と聞いた。

但馬は、そこで初めて大膳に、秀吉からの「切腹の命」を伝えたのであった。

「但馬殿、貴殿と交誼を添うすること日は浅い。しかし、その友情は誠に兄弟の如くである。しかるに関白の命令を知りながら、知らぬふりして誘い出すとは何事か。但馬は、それでも武士か、武士の情けを知るなら、何故に早く打ち明けてくれなかった」・・・怒りを込めて、但馬の無情をなじった吉俊は、来ていた羽織を脱ぎ捨て「拙者の形見にせい」と、天馬を睨んだ。

言い終わるや否や、吉俊は小太刀を抜き放ち、その場で腹をかっさばいて果てた。

何とも、後味の悪い、裏切りの話である。

吉俊の首は、抹香塩漬けにして桶に収め、北条善左衛門、宰領蒲地備中、吉田平左衛門、指宿壱岐の3人が持参して上京した。

その時の小太刀は、その後、津貫の牧の段名主宅に、所蔵されていたが、相次ぐ不遇の為に、誰かに譲渡。ところがその家でも、凶変が起り、元の名主に返還したが、現存するかは未だ以て不明である。

 

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